ヘルシンキ宣言は弱められてもいいのだろうか?ヘルシンキ宣言は寄せ集めの記念碑に過ぎないか、力強い文書か、それとも時代遅れの代物か ?
2007-11-19
BMJ誌2007年9月29日論説BMJ 2007;335:624-625 (29 September), doi:10.1136/bmj.39339.610000.BE
(キーワード:ニュルンベルク綱領、倫理の普遍性、倫理の相対性、研究効率の保護、被験者の保護、個人の自律性、改訂の透明性、道徳)
WMA(世界医師連盟)のヘルシンキ宣言は、人を対象とする医学研究の倫理指針です。このBMJ誌論説でカナダの学者たちは、ヘルシンキ宣言について、その規範としての位置付け、医学研究現場での実効性、改訂過程の透明性、宣言の原則としての個人の自律性などのテーマに沿いつつ、ナチスの人体実験に対するニュルンベルク綱領という宣言の出発点から説き起こし、研究の効率性を求めて宣言に対抗してきたアメリカの動きによって、宣言の弱体化、曖昧化が進んできたことに懸念を表明し、宣言の持っている強さの土台が宣言の中核的な諸原則であることを結論し、将来に向けての積極的な改訂に触れています。
日本では、宣言の改訂に基づいてでしょうか、大学病院などに倫理委員会、研究審査委員会などが出現してきました。日本医師会はWMAの会員ですが、東京で1975年に開かれたWMA大会で独立した委員会を作ることが宣言に追加されたことが引き金になりました。多くの研究実施計画書には、宣言を遵守することが記されています。しかし、宣言の各条文が現場で実際に護られているかどうかまで論議は行われず、神棚のしめなわのように祭られてきたように感じられます。これは、建前と本音を使い分ける日本の特徴かもしれません。
日本では、治験についてはGCPが実施され、それ以外の臨床研究については倫理指針が実施されてきました。臨床研究倫理指針は、行政指導のための告示で、本来の倫理指針の水準以下のものです。例えばヘルシンキ宣言27条(ネガティヴ結果の公表義務)以下は抜け落ちていて宣言の水準を引き下げており、宣言9条(宣言が示す被験者に対する保護を弱め無視することが許されてはならない)に反しているのです。本来は、ヘルシンキ宣言レベルの高度の規範を専門家組織が作り、専門家組織が規範の管理を行うなど自己統治するべきものですが、日本には、臨床研究に関する専門組織はなく自己統治はありません。日本の本音は、むしろ研究の推進、知的財産の創造保護、国際競争力の強化なのでしょう。
そもそもヘルシンキ宣言は、「本人の自発的な同意が絶対欠かせない」とのニュルンベルク綱領のインフォームド・コンセント原則を後退させ、精神疾患患者や子どもなど同意能力を欠く場合の医学研究について新しく規定し、治療的研究と非治療的研究を区分けしました。
その後、HIV母子感染予防の標準的方法AZTがアメリカで1994年に確立した後に、CDCなどアメリカ当局がスポンサーとなってプラシーボ対照臨床試験がサブサハラなどの発展途上国で行われました。プラシーボ使用について、宣言に反するとの批判が1997年にNEJMに載り、倫理規範について、多元論と普遍論の論争が始まりました。
臨床試験の対照群は最善の方法でなければならないとの宣言について、プラシーボ対照群が非倫理的か否かが問題になり、2000年改正で、標準的方法が存在しない場合のプラシーボ使用を認める但し書きを追加しました。
これに対して、プラシーボ使用の許容範囲を大幅に広めようとするアメリカ医師会の改訂案が出されましたがドイツ医師会などの批判を招いて退けられました。ところが、標準的方法が存在してもプラシーボ使用が出来るとの注記が2002年に付け加えられ、注記はWMA総会でなく理事会で決めるに過ぎないものの、宣言に矛盾が生じることになりました。
ヘルシンキ宣言に対するこれらの改訂は、主として、アメリカの食品医薬品庁(FDA)
の強い意向に従ってなされたように見えます。アメリカは、日本のように、建前と本音を使い分けることはせず、ルール違反を批判されると、作ったルールだからルールを変えればいいとの考え方に立って、ヘルシンキ宣言を弱める方向に改訂を進めてきたのでしょう。
もともと、個々の患者が自らの病状にとって最もよいと思われる診療をうけるべき、との個人倫理と、後に続く患者たち(母集団)がより優れた診療の恩恵を受けられるように出来るだけ効率よく医学の進歩を達成する、との集団倫理の関係はいつも問題になるのですが、個人倫理を護らずに、集団倫理のみを貫くことは出来ないのではないでしょうか。アメリカのFDAは、集団倫理に重点を置き、研究の効率性を推し進めてきたように感じられます。
このBMJ誌の論説は、宣言が次第に弱化してきた現状を打破すべく、むしろ、宣言における中核的諸原則を再構築していくべきことを示唆しています。
BMJ誌の論説の要旨は次の通りです。
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人についての医学研究の倫理規範として、WMA(世界医師連盟)のヘルシンキ宣言があり、1964年以来5回の改訂と2つの注記が加えられたが、WMAは、最近、更なる改訂を提案している。
歴史的に、宣言は、臨床試験について、ナチスの人体実験に対する軍事犯罪についての判決におけるニュルンベルク綱領の厳しい保護を、弱めるものとして表現された。
証明された方法がないときにはプラシーボが使えるとの改正が1996年に宣言に加えられたが、HIV母子感染の標準予防法が確立した後に発展途上国でプラシーボを使った臨床試験が行われて、倫理規範は先進国と発展途上国とで異なるのかとの批判が生じ、倫理規範の普遍性と相対性の問題が指摘された。
アメリカは、ニュルンベルク綱領のさらなる弱化を提案したが、2000年の大改訂が行われ、被験者の保護を犠牲にして研究の効率を保護する方向性があるとの懸念が示された。宣言が分かりにくいとの不満に対して2002年注記(標準的方法があってもプラシーボ使用が可能な範囲)、2004年注記(研究後の最善な方法へのアクセス)が加えられたが、これらも世界的には支持されなかった。さらに、CIOMS指針など他の指針が現れて、宣言との矛盾が生じた。
宣言の将来について、宣言の本質的な目的、構造、地位、範囲、普遍性が論争されている。
宣言の性質は、単なる綱領から規範へと変化してきた。しかし、ニュルンベルク綱領のような簡潔さへの改訂も、他の指針のような詳細な解説の提供をする改訂もできないかもしれない。標準方法、倫理基準、倫理原則、原則の操作の定義に成功していない。
倫理原則では個人の自律性が最も重要と考えられてきた。自律性は、外からの影響に対して常に全く自由ではなく、健康、社会的関係、性、力の不均衡などの要素に抑制され関連する。その論争は、被験者と研究実施者の関係を特徴づける内在的な不平等と脆弱性に対して十分な注意を払っていない。
WMAは、宣言の改訂経過が透明性を欠くことは宣言の11条、16条、27条における開示性の精神を反映していないとの批判に答える必要がある。
宣言は、わずかな法的権威しかないが、相当な道徳的権威を得ている。故に、手段的であるより象徴的である。
宣言にどれほどの効果があるかを評価するのは難しい。宣言は、研究実施者自身の内的な道徳ではなく、外部的に課された道徳を表していて、そのことが実際の研究に影響を与える宣言の能力を限界づける。倫理的な研究は、集団構成員に共通の責任である。研究実施者が宣言などに描かれた諸原則を自身および集団構成員に共通の道徳として受け入れない限り、宣言は単なる言葉に止まる。宣言の力は、手続き的なルールや改訂を超える、道徳的な羅針盤であるところの、中核的な諸原則に存在しているのである。
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なお、この論説に関連するものとして、ヘルシンキ宣言については、2004年にパブリックシティズンがFDAに宛てた書簡「FDAはヘルシンキ宣言を放棄するな」を注目情報として紹介しています。 (MT)
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