転移性乳癌にはアバスチンの使用を推奨しない: イギリスNICEの勧告案
2011-02-04
(キーワード: NICE、アバスチン、サロゲートエンドポイント、費用対効果)
イギリスのNICE(National Institute for Health and Clinical Excellence: 国立医療技術評価機構)はNHS(National Health Service: 国営医療)において転移性乳癌に対するアバスチン(一般名: ベバシズマブ、ロシュ、日本では中外製薬が販売)の使用を推奨しないとする勧告案(※1)を2010年12月8日に発表した。勧告案はパブリックコメントに付された後、正式の勧告となる。すでにアメリカでは2010年7月にFDA(米国食品医薬品局)の諮問委員会が転移性乳癌に対するアバスチンの迅速承認を取り消す勧告を出している。
今回のNICEの勧告案について、ピンクシート誌が抗がん剤の効果指標として何が適切かの観点から記事にしている。同誌の指摘は次の点にある。
NICEの決定は医薬品に関するより重要な論点を含んでいる。それは、全生存期間(Overall survival)やQOL(quality of life: 生活の質)こそが患者にとって重要な指標であり、無増悪生存期間(Progression free survival: 癌が進行するまでの期間)や腫瘍の縮小が示されただけでは十分ではないとNICEが考えていることである。加えて、適応を一部の患者集団に限定するならば(今回の場合はタキサン系抗癌剤による治療歴があり、治療薬が乏しい、エストロゲン受容体陰性、プロゲステロン受容体陰性、HER2陰性のトリプルネガティブの患者のみ)、なぜその患者集団にのみ効果があるのか生物学的に妥当な説明が示されなければならないとしている。
以下、ピンクシート・ディリー2010年12月9日号の記事を紹介した後、解説を加える。
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ロシュがNICEに提出した最初の資料には、722名のopen label(盲検化されていない)の試験しか含まれていなかった。NICEによればこの試験には様々な欠陥があるうえに、パクリタキセルに上乗せすることによりアバスチンはわずか1.7カ月の生存期間を延長したにすぎなかった。その後、NICEに提出された2本目の試験では、無病生存期間ではパクリタキセルを上回っているものの、生存期間では反対にアバスチン群の生存期間が短い傾向が示された。そこで、ロシュはメタアナリシス(複数の臨床試験を統合した解析)の結果から、タキサン既治療の患者部分集団(その多くはトリプルネガティブ)では5.6カ月の延命効果があると主張している。
ロシュの希望はたとえ全患者集団での使用は認められなくても、NICEが上記の部分集団での使用を推奨することであった。しかし、ロシュによる探索的なメタアナリシスの結果をNICEは認めなかった。確かに特定の種類の腫瘍でアバスチンがより有効である可能性をNICEは否定しなかったが、しかしなぜトリプルネガティブの患者がアバスチンからより大きな治療効果を得られるのか生物学的に妥当な理由が不明確であると指摘している。またロシュはNICEが重視する健康関連QOLもアバスチンによる改善を示せなかった。このことからNICEはアバスチンがQOLにどのような影響を与えるかわからない(uncertain)としている。
さらにロシュは他の多くの製薬企業と同じく、患者アクセス保障(Patient access scheme)によりアバスチンの使用をNICEに推奨させようとした。ロシュはアバスチンの薬剤費の上限を23,000ポンド(約300万円、1ポンド=130円)ないしは6カ月分の費用とすることにより、有効性が高いとされるトリプルネガティブの患者にアバスチンを提供しようとした。このような患者アクセス保障を用いるにはNICEではなくイギリス保健省の承認が必要になる。しかし、提案された枠組みは複雑で他剤と比べても追加的に大きな負担が必要となると判断されたため、患者アクセス保障の適用は認められなかった。この決定に対してロシュは同様の仕組みはヨーロッパの他の国々でも行われており、NICEも他の薬剤では似たような仕組みを採用していると反論している。
しかし、たとえ患者アクセス保障を採用したとしてもアバスチンの増分費用効果比は1QALY(質調整生存年)あたり11万ポンド(約1400万円)以上となる。パクリタキセル単剤治療と比較すると1QALYあたり25万9千ポンド(約3400万円)にも達するため、費用対効果を判断する際のNICEのおおよその基準とされる3万ポンド(約390万円)から4万ポンド(約520万円)をはるかに上回ってしまう。
アバスチンは今回の決定だけでなく、2010年11月に転移性大腸癌で、2009年には(バイエルのネクサバールなどとともに)転移性腎細胞癌において、2008年にはデータが未提出のため転移性肺癌に対して、NHSでの使用を推奨しないとNICEから勧告を受けている。どうやらアバスチンはNICEとの相性がよくないようだ。
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NICE(国立医療技術評価機構)は1999年に設立されたイギリスNHS(国営医療)の下部組織(special health authority)である。医療技術評価(health technology appraisal)においては、イギリス保健省の指定する医療技術に対してNHSでの使用を推奨するか、否か(ないしは一部の集団に限定するか)の勧告(guidance)を出す役割を担っている。NICEの勧告の特徴としては安全性・有効性に加えて、医療経済性が重視されることにある。たとえ、安全で有効な医療技術であっても費用対効果に劣る医療技術には否定的な勧告が出ることが多い。この際に特に問題となってくるのが今回のアバスチン(ベバシズマブ)のような近年次々と上市されている高額な抗癌剤である。アバスチンの場合は医療経済性以前に有効性が不確実であるとの理由だったが、しかしたとえ安全性や有効性が認められても、高額であり費用対効果に見合わないため使用が認められないケースも増えている。
一方で、NICEからこのような否定的な勧告が出されると実質的にNHSにおける使用が困難になるため、医薬品に対する患者アクセスを阻害することにもつながる。(インフルエンザなどと異なり)各種の癌は患者の生命に直接かかわる疾患であるため、特にNICEへの患者側からの反発は強い。そこで患者アクセス保障(patient access scheme)の仕組みを用いて、メーカー側が実質的に医薬品価格を低下させることにより、費用対効果を改善させてNICEから「使用を推奨する」との勧告を受けるケースも増えている。非小細胞性肺癌のタルセバ(エルロチニブ)、多発性骨髄腫のベルケード(ボルテゾミブ)、転移性大腸癌のアービタックス(セツキシマブ)などが患者アクセス保障により使用が推奨された例である。ただし、今回のアバスチンは患者アクセス保障の適用も見送られたようである。
日本においては、このような費用対効果を用いた意思決定はほとんどなされていない。しかし、高齢化の進展や医療技術の発達により医療資源の制約(有限性)が意識され始める中で、医療経済性も考慮した医療資源配分のルール作りを考え始める時期に来ているように思われる。
なお、転移性の固形癌に対する抗癌剤の臨床試験では、無増悪生存期間(progression free survival: 癌が進行するまでの期間)がサロゲート(代理の)エンドポイントとして一般的に用いられる。しかし多くの臨床試験では、無増悪生存期間よりも全生存期間(overall survival: 患者が死亡するまでの期間)の群間差が小さくなる傾向がある(しばしば全生存期間では差がなくなるか、上記のアバスチンの例のように逆転することもある)。
このような現象を、「抗癌剤が本当に全生存期間を延長しない」のか「臨床試験の技術的な問題により差が小さく見える」と解釈すべきなのかは議論の分かれるところであり必ずしも決着を見ていない。後者の立場に立つ場合、無増悪生存期間を主要なエンドポイントとした臨床試験では、癌が進展したのちに様々な(治験薬も含めた)抗癌剤が投与されるため、種々の要因が交絡した結果として差が小さく見えると主張されることもある。また、無増悪生存期間を主要なエンドポイントとしているため、全生存期間の差を見るには観察期間や発生イベント数が十分でない可能性も否定できない。いずれにしろ無増悪生存期間を主要なエンドポイントとした臨床試験(ほとんど全てだが)の結果を解釈する際には、「本当に生存期間を延長するのか」「患者のQOLによい影響を与えるのか」など真のエンドポイントにも注意を払う必要があるだろう。 (TS)
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