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 私の実家は、宮城県の気仙沼市・大島で、2階から釣りができる程海の傍である。実家には88歳と85歳の両親がいて、気仙沼市内には弟と弟の長男が働きに出ている。3月11日の大震災の直後、携帯もメールも全く通じないなかで、津波と海面火災、大島への延焼が次々に報じられ、食事がのどを通らない状態となった。

 追い打ちをかけるように福島原発の事故が予断を許さない状況に陥った。17年間、福島第2原発の裁判に専念した経験があるので、原子炉格納容器が破損した時の被害の大きさは十分に分かっていた。

 15日の夜、家族を説得し、できるだけ多くの食料を車に積み、山形に向かい、翌日車を鶴岡駅に捨て、身の回りの物だけを持って電車に乗り込み、夕方に秋田駅に到着した。

 秋田のホテルで家族で協議した結果、「原発が持ちこたえるのであれば、私一人が秋田から気仙沼に入る」「地の利を活かし、大島の被災者にとって最も必要な物を可能な限り運ぶ」という方針を決め、18日の朝6時に秋田をスタートした。

 車が気仙沼市役所を超え、沿岸に近づくと風景は一変した。崩れた家屋と瓦礫の山がどこまでも続き、まともな家は一つもなく、海には転覆した小型船舶、黒こげの大型マグロ船がいくつも漂い、岸壁近くの海は木材や家具などの漂流物で埋め尽くされていた。

 大島では船着き場付近の家々はほとんど流されていた。両親は、地震と同時に家を飛び出し、防波堤にしがみついて揺れが収まるのを待っていたが、間もなく弟の嫁さんが車で迎えに来て、足の悪い父を乗せて高台にある弟の家に向かい、母は裏山の道を上って難を逃れたとのことであった。

 さっそく実家にいってみたところ、本宅は1階部分が柱を除き全て流されて向こう側が見える状態で、隣にあった作業小屋は全て流されていた。

 金のある人とない人、健康に自信のある人とない人、心がけのいい人と悪い人、日常生活はいわばその差を競う場である。その場が根本から覆ると、その差を競うことの意味がはるか向こうに遠のいてしまう。裁判も日常の一こまであり、当事者の安否が知れないという事態が生まれると、裁判は一挙にその意味を失ってしまう。3月11日からの一ヵ月で私はそのことを痛感させられた。

 原発の事故は、日常性の転覆の極みである。現在と将来の日本人から日常性を奪う原発をどうするか。安全神話で曇ったメガネを拭いて行動する責任を私達は負わされている。

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