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 「被告人は無罪!」。シーンと静まり返った法廷に裁判長の声が響きわたった。「ええっ!」傍聴席からどよめきの声があがった。
 安部英元帝京大副学長に対する刑事裁判は、85年5月、6月に非加熱濃縮血液製剤を投与され、HIV感染しAIDSを発症して死亡した1青年に対する業務上過失致死事件として行われていた。危険性がわかりきっていた時期だけに多くのひとが有罪を確信していた。ずっと裁判を傍聴していた遺族の母親は判決日も傍聴していた。判決言い渡し後、母親は怒りを露にして、「あれは息子の裁判ではない。判決なんて紙切れじゃないですか!」と言った。
 裁判官の考え方は判決要旨の冒頭に示されていた。「最先端の専門家によってウィルス学的な解明がなされるとともに、その解明が進むのを受けて、血友病治療医らがエイズへの対処法を模索しているという状況にあった」。このように書いた裁判官は、死んだ被害者のことはそっちのけで、判決要旨67頁中52頁を費やして事件当時のウィルス学説などを延々と検討し、「検察官の言うことは大袈裟だ」と結論づけた。
 この判決を読んで私は映画『踊る大捜査線 ザ・ムービー』の一コマを思い出した。織田裕二が「事件は会議室で起こっているんじゃない。現場で起こっているんだ!」と叫ぶ場面だ。すでに2名の血友病患者をエイズで死なせていながら非加熱濃縮血液製剤の使用継続に執着し、各製薬企業の加熱濃縮血液製剤の新薬承認時期を横並びにしようと画策し、いま目の前にいる血友病患者をエイズで死なせてしまうかもしれないという不安を抱いているはずの臨床現場の医師でありながら、ウィルス学者が問題を「確定的に」解明して論文に書いてくれるまで危険回避の努力を何もしない、何もしなくてよい、というのが判決の基本的な考え方なのだ。判決の論理に従えば全容が解明できていない現在でも、非加熱濃縮血液製剤を投与することは殺人どころか業務上過失致死にさえならないということになる。
 争点は危機管理のあり方。しかも危機発生の直後ではなく事実解明が進んだ時点での危機管理という難易度の低いものだ。なにがより確実な安全策かが要請されていた。外国血(米国血)よりも国内血、数千人の血液からできている濃縮血液製剤よりも単ドナー製剤であるクリオ、非加熱よりも加熱。そんなことはエイズ問題を真面目に考えていた血友病患者はだれもが知っていた。なのに安部元副学長も他のほとんどの血友病専門医も米国血の濃縮で非加熱を選んだ。クリオとちがって薬価差益が大きく儲かったし、だれも「やめる」と言い出さない。これが専門医の実態だ。裁判官はそういう現実を見ようとしない。
 民事裁判で画期的な和解を勝ち取っても失われた生命は戻ってこない。もっとも責任があるはずの権威者は刑事裁判ではふつうの医師になり免罪される。
 裁判では薬害は止まらない。

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